江戸時代の女性は結構アクティブ!離婚に旅行に自由自在!

気賀関所

新聞を読むにつけて女性の社会進出、雇用の機会均等という言葉が消えることはありません。

ただ、「女性は女性は」というコトバが言われれば言われるほど、なんだか、「女性はこうだ!」という概念が決められてしまったり、不幸な性別に生まれてしまったという先入観を知らず知らずのうちに刷り込まれている気がして嫌なものですね。男女に差はありません。確かに体力の差はあるかもしれませんし、恋愛観も違うけど・・・。

そもそも、「女性は!」という言葉が世に出るときに引き合いに出されるのが、「昔はこうだった!」なんていう、誰も知らない遥か過去の女性との対比。それもそれで、違和感を感じるのは筆者だけでしょうか?

そこで、本日は、筆者の趣味のひとつ、史跡の一人歩きの最中に立ち寄った「関所跡」の一コマから、女性とは?について考えてみたいと思います。

江戸時代の女性は活発だった

「入りデッポウに出女」。この用語は、受験を経験した方なら歴史の授業で教わったはず。江戸に持ち込まれる鉄砲と、江戸から出てゆく女性には特に警戒せよ!そんな意味合いの有名な言葉です。

当時、日本各地の大名は、江戸に屋敷を構えることが求められており、参勤交代によって、1年ごとに江戸と自分の領地の間で交互に暮らさらければいけませんでした。そして、大名の妻は常に江戸屋敷へ住むことが強要されていたのです。簡単に言えば、人質ですよね。

浜松市・気賀関所の様子

浜松市・気賀関所の様子

出女は、そんな人質である大名の妻たちの動きを関所が見張っていたことから出てきたコトバです。だって、謀反を企む大名がいたとしたら、真っ先に人質の妻が被害に合いますよね。いつの時代も、自分の妻が亡くなってしまうことは、居た堪れない訳です。「謀反するから領地に帰ってこいよ!俺の妻」。そんな動きは関所が見張ることになっていたんです。

もちろん、一般庶民の女性も関所越えを厳しく監視されていましたが、江戸時代になるとお伊勢参りがブームになり、女性もかなりの人数が出かけていたようなんです。

もっとも、正規の手形で旅に出かけるためには、夫の承諾はもちろん、町の名主から証明書を発行してもらい、奉行所からの許可と幕府御留守居役から手形を発行してもらう必要がありました。

無事関所に辿りついても安心できる訳ではなく、手形が本物かどうかの照合。人見女(ひとみおんな)と呼ばれる怖~い女性に髪の中からホクロの位置まで、くまなく調べられるという具合いです。

ただし、やはり!?抜け道もあったようで、NHKのテレビ番組『タイムスクープハンター・女たちの関所越え』では、仲良し三人組でお伊勢参りに出かけた奥様方が、ワイロを渡さず関所を超えられなかった束の間、町の宿屋の主人にお金を払って抜け道を教えてもらう話しになっています。

もはや、抜け道によって半ば公然と旅行に出ていたというのも史実のようですね。

江戸時代の離婚希望者は今の2倍!?

Menjoy『うっそぉ…離婚率が「現代の2倍だった時代」があったってマジ?』によると、江戸時代の離婚率は現代の2倍もいたそうです。特に女性から離婚を希望する率も高く、公式には男性しか認められていなかった離婚の申し立ても、例外的に「縁切り寺へ駈け込めば女性から離婚をすることができる」というルールを使って、離婚をしていました。

また、町の名主や長屋の主人などを間に挟んで離婚協議が行われることもあり、建前は夫からしか離縁が認められませんから、原理原則に従って、夫に三下り半を書かせて離婚成立!そんな悲喜こもごもな話しもたくさんあったよう。

この三下り半は、離縁を許可すること、再婚を認めることを書いた定型文のようなもので、ちょうど3行半くらいの文章になったことから三下り半といわれるようになったものです。

つまり、建前では女性は弱き者的な扱いを受けていましたが、実際は、旅行にいったり、離婚も結構していた。江戸時代の女性もアクティブだったんですね。

確かに今よりは自由が制限された時代だったのかもしれませんが、女性は自由もなかった!なんていう話は、さらに女性を萎縮させる話にしか聞こえない筆者。もっと、昔を調べれば、日本女性の強さや行動力が見えてきて元気づけられる。そんな歴史にも目を向けていきたいですね。